20191003
Dreams読んでた。
20191002
Dreams読んでた。
20191001
あまり集中できない日だった。
小説を書こうと思って3ヶ月ほど前に作った小説フォルダを開いたら登場人物「淵かるた(トランプ支持者)」とかジャンル「アンチビルドゥングスロマンホラー」とかでちょっとうーん……となった。しかしとりあえず続行する。
そういえば最近加速主義の話をあまり見なくなってしまったけど、新本格はミステリの形式を加速する加速主義だったと理解している(exitしたのは清涼院とか麻耶とかの一部だけだとしても)。「加速」と「exit」のどちらに力点を置くかによって加速主義者も派閥が分かれる印象があって、例えば西尾維新は加速を重視していただろう(なんてったって加速→空転→大団円のネコソギラジカルだし超越志向はもともとあまりない)し上遠野浩平はexit(突破)を重視していただろう。自分はといえば、多分今は加速派だ。exit=超越への希求はもちろんあるけど、それよりとりあえず速度がほしい(しかし加速度の概念は検証されていない印象があるし、自分でもあまり考えていない)。
20190930
プリパラミュージックコレクションが最高。
今週のチェンソーマンもわりとよかった。即物的なものから人間関係を立ち上げる手付きにはけっこう確かなものがある。多分映画見まくって漫画描いてるんだと思うんだけど、どっかでインタビューとかあったかな。
アトラクナクアをやっている。時間の感覚が少し不思議なゲームだと思うが、シーンが切り替わってもBGMがなかなか変わらず同じ曲がループすることも影響しているような気がする。攻略したキャラ=獲物は人間世界から除外されて、人間関係が部分的にリセットされてしかし話は続いていく。獲物を捉えると少しだけ世界が変質して次の獲物へと話は進む。学園が比良坂初音の巣になっていく感覚が、ある程度表現されている。それと比良坂初音はマンティコアっぽさがあるね。
深層ニュースという番組で大村知事と河村市長と宮台真司と木村草太が出ているのをなんとなく見た。宮台がやる気なさそうに「レベルが低い」と繰り返していたのが印象に残った。語彙や振る舞いの種類において圧倒的に分断を感じ、そして自分はその分断の片側にいるという事実そのものに苦しさを感じる。だから東浩紀の正直全部どうでもいいと思っているだろうな、という態度を心から批判することは自分にはできない。
20190928
睡眠時間を減らそうと思い、5時間睡眠で活動をしたら一日中ややぼんやりとしていた。夜も寝落ちしたのでこの日記は0929に書いています。睡眠は一日7時間必要だな……。
『韓国現代史』を読み終えて米沢嘉博『戦後少女マンガ史』を少し眺めて(さすがに1980年までの少女漫画をほとんど読んでないので記述が全体的に理解不能でした)村山渉『フキゲンシンデレラ』を読んだことくらい。フキゲンシンデレラはTSした主人公が最後男と女に分裂して終わるのが面白かった。
それとまどマギの最終話を見た。Aパートで因果がどうとか言ってるところは無理やりロジック感が出すぎていて微妙だけどBパートは今見ると雰囲気がとてもいいと思う。「私の戦場はここじゃない」からの戦場を見つけるエンドだったんだなーとか。しかしみているとトップ2の素晴らしさなどを考えてしまった。概念になった主人公にヒロインが置いていかれる、という話として考えると似た印象は受けるのだが(まあそんなこと言ったらウテナもそうだしそもそも榎戸要素なのかもしれない)、話全体の構築がまどマギとトップ2ではレベルが違うとは思うしノノとラルクのほうがまどほむよりはずっと自由だ。10年後くらいにまどマギ2を榎戸脚本でやるといいかもしれない。
20190927
『サブカルチャー文学論』を少し拾い読みした。
最近はもはや大塚英志の信者のように振る舞っているところがあるが、ある時期に大塚英志の理論を脳内で完コピできるようにしようと思ってそれを実行しているのでそういうふうになってしまう。実際民俗学関連を除けば大雑把なレベルでシミュレートできるようになってきた感覚はある。大塚英志のデッドコピーになるのはさすがにヤバイとは思うので適宜修正は加えているつもりだけど、私にとって大塚英志はなにより多重人格探偵サイコの大塚英志であって普通の批評家に比べて初期値での尊敬度が圧倒的に高いのであまり取り入れることに抵抗がないんだよね……。まあ普通に信用できる部類だとも思うし……。
前に某氏と話したときに「90年代はゼロ年代を生んだから肯定できるけどゼロ年代は10年代を生んだから肯定できないよね」と言われ、その場では「そうですねー」などと言いつつ内心では「確かにそんな気もするが論理的にはどうなんだ?」と思っていた記憶があるのだが、最近は完全にこの言葉に同意できる気分になっている。しかしゼロ年代を肯定したいので今から10年代も全部よくなってほしい。
20190926
米澤嘉博の『売れるマンガ、記憶に残るマンガ』と『手塚治虫マンガ大全』を流し読みした。やはり50年代の手塚治虫ちゃんと読まないとなあという気持ちにはさせられる。私は基本的に60年代以降の作品しか読んでいなくて、でも夏目とかの識者は口を揃えて初期の描線が神なんだと言っている。しかし私は絵を細かく読むタイプではないという問題がある……。
「世界よりも君を選ぶ」ということは正しく思えるのに「世界よりもアメリカを選ぶ」と言われるとちょっと待ちなよとなってしまうことについて考えていたが、大小のスケールの問題ではなく、「世界よりも個人を選ぶ」というのと「世界よりも社会を選ぶ」ということの違いであるとすると、別に矛盾してはいない(個人>世界>社会の序列には抵抗を感じないので)。しかし本当に世界と社会の区別がつけることが実践的に可能なのか(たとえば大塚英志は世界と社会の区別をつけていない節があり、個人が「日本」と同一化して覚醒することをセカイ系と呼んだりしているがこれ自体は誤用に近いと思う)。それがまだわからない。
確か統治と功利だと「幸福度を高める薬」はその安全性が確かなものなら投与OKということになっていた。しかし統治功利主義においては二階の欲望が前提なので、「幸福度を高める薬を投与されている状態」を我々が幸福であると感じるか、というメタ認知が考慮される。そこに感じる倫理的抵抗も効用の低下につながるので人々の意識が変革していかなければゲノム操作もとりあえず許可されないように思う(現時点で圧倒的に多い先行世代の効用が微減するような気もするし)。でも反ワクチンの人が圧倒的マジョリティの時にも多分統治者はワクチンを秘密裏に投与するはずなのでそうでもないかな? 効用増加のために詐術を用いることを統治功利主義は肯定しているので、もしかしたらもうすでにゲノム操作は秘密裏に行われて子どもたちの効用が静かに増加しているかもしれない……(陰謀論)。
20190925
一切やる気がおきず夜までなにもできなかった。
0919の記述について少しやり取り。生活厨批判は個人的に他人の生活に興味を持てないし持ちたくないという点に端を発していることは一応書いておく。西尾維新も作者は作品を生み出す装置としか思えないと昔書いていた。
さらに書くなら、生活厨が倫理的に悪いといいたいわけでもなく単純に生活厨的な態度・価値観を全面に出されるとその人との対話は不可能だと判断してしまうな、というかなり即物的な問題でもある。
「生きてるだけで偉い」は生活賛美ではないような気がしてきた。ちょっと元ネタがどこかもわからないし言説精査もしてないんだけど、「つらい人生の中で日々の仕事や生活をこなしているあなた(わたし)はとても立派なことをしている」というメッセージなのだと解釈している。普通に自己啓発なので言説として取り合うものではない気もするが、内容的には別に生活賛美ではないな……。「命をだいじに」という方が明らかに近く、それについては特に異論はないので適切な例ではなかった。あえて言うならその路線だと個人の生存が自己目的化していってジリ貧じゃないか、というくらいの一般論か。この言葉の本当の問題は「自分は別に偉くない」という圧倒的な実感に対してこの自己啓発が一切救済に寄与せず疎外されているという被害妄想を味わうことであって、内容の問題ではない。というわけで訂正です。雑!
紫晶石で検索してもソシャゲ攻略情報ばかり出てくる問題というのはある。PN→菱紫→アメジスト(誕生石)からの紫晶石なんだけどなんで最終的にこのネーミングなのかは忘れた。
20190924
体調は回復している。図書館。
木村幹『韓国現代史』がけっこう面白い。歴代大統領が歴史の節目で何をしていたかをドキュメント的に書くんだけど分かりやすいし群像劇としてもわりとアツい。
プリコネ王雀孫、ちょっと動画みたけどやっぱ駄目っぽくない? コミュニケーション不全とは世界との関係不全でもあるというかつてあったはずの視点が一切存在しないように見える。世界の中に居場所があるやつがぼっちとかやってても全く切実に見えない(そこから「居場所」をいかにして作るか、という方向に派生していったというのが部活ものの起源の一つとしてあるんだと思うけど、その方向性はやはりあまり面白くないのではないかと思う)。
20190923
また体調が悪くなったのであまりディスプレイを見ないでずっと寝ていた。0924に書いています。
『宝石の国』を9巻まで読んだ。前は4巻くらいまでしか読んでいなかったのだが、これはかなり手塚治虫的なマンガなんじゃないかと思う。手塚作品では繰り返し身体のメタモルフォーゼと精神の変質が描かれているのだけど、完全にそのような問題系が全面に出ていた。キャラクターのアタマをギャグではなくすげ替える描写自体、鉄腕アトムと火の鳥以外で覚えてないし。市川春子は手塚治虫文化賞とってるということを思い出し、もしかして賞がけっこうちゃんと機能してるのか??と思ってしまった。で、金剛先生の正体とかも手塚ファンならですよねーという感じだと思う(本人がファンかどうかは知らないが……)。手塚先生は人類愛を強く持っててもあまり個別の愛とか勇気とかは信じてない印象なんですけど宝石の国はカプ厨にも優し(?)そうでいいのではないでしょうか。好きなキャラはとても多いが、特にフォスとルチルかな……。
20190919
図書館。
今週のチャンピオンの板垣恵介×板垣巴留対談はファンなら必読。
『愚民社会』を読み終える。しかしいくら大塚とか読んでても、根本的に社会とかどうでもいいなという思いが一切消えない。なのだが、社会を否定したときに生活厨へと転落するパターンがあるように思えて、完全に社会をシャットアウトするのも危険なのではないかと思っている。あえて強い言い方をすると、ネトウヨのことはそれ自体としては前に書いた通り究極的にはどうでもいいと思っているが、生活厨に対してはある種の憎しみを感じていることを否定することはできない。生活厨とはなにか? 最大限に広くとったときに、それは個人が偶然的に特権的に持つものに最大の価値を置く態度のこと、くらいにまで拡大されるだろう。典型的には「身体」に最大の価値をおいてそのメンテナンスに努めるタイプの生活厨が想定されるが、私の中での生活厨の認定範囲は相当に広い。大量生産品が好きで限定品が苦手なこともアンチ生活厨の一環だ(もちろん限定品があればほしいが、その存在自体は悪だと思っている)。だから、大塚が「ぼくは戦後民主主義の中で大衆に開かれた言葉を使うことで書き手になれた」みたいなことを言っているとどうしても共感してしまうところはある。
思い出。私は一定の時期まで世間で流行の漫画をリアルタイムに読んで素直に楽しめる人間だったのだけど、2010年頃に進撃の巨人とキングダムが周囲で流行り始めて、その2つを後追いで読んで一切楽しめなかったあたりからなにかがズレはじめたような気がする。というわけで進撃の巨人への印象はすこぶる悪いがそろそろ和解するか……と思っていたが結局読めなかった。なんか変な薬でもやってるみたいな変なテンションのヒロイズムで全てのキャラを立ててる印象が厳しいんだよね……。まあ動員っぽいというだけかもしれない。