20171015

 FGOの追加シナリオをやった。第一印象は激安忍法帖。もうほとんどスターシステムというかキャラクターの性質だけを残してロールプレイをさせるシナリオ作りをしているのだけど、性質とエピソードの取捨選択が安い方へ安い方へと流れていく。
 FGOにおける基本的なキャラ描写は①初登場のシナリオか幕間で「生前のエピソード」(これも本来のFate的な思想ではないと思いますが)を提示する②そのエピソードの中から抽出された要素がキャラの核―起源―本質として据え置かれる③その本質がロールプレイの中でどのように作用するかが描かれる④人情話、くらいだと思う。
 本質が実存に先行―――ってそういうことじゃないんだよなあ。例えばzeroは(ランスロットの挙動など)上で言うと①と④からなっていて(イスカンダルは②の工程があったかな)、本質を理解していないことが論者に批判されていました。んでFGOは一見本質要素があるように見える。しかしそれは表面だけの本質にすぎない。「本質は具体的なエピソードによって保証される」という発想がまず実存ベース。①から④まで全てがズレている。「先行する本質が生前の具体的なエピソードを招いた」というように善意的に読み込むことが難しいのは、多分現実の歴史への依存性が高すぎるからで、どう考えても歴史に合わせて本質を規定しているだろ(もしくは物語の要請に合わせて本質を規定している)という作り手の事情があまりにも透けて見えるからだと思う。SNは慎重に歴史から距離をとっていたということは前にも話したはず。
 キャラクターがいちいち目的的すぎる。私は憎しみに焼かれているから全てを焼き尽くす―――とか言われてもそうですかとしか返せないわけで。バーサーカーになって狂化すると本質がむき出しになるみたいな描かれ方もしてるわけですがそれって逆だよね、とか。
 僕はzero単体では全然読める小説だと思っていて、人情話がうまいなあいい話だなあ、とか思うわけだけど、FGOはそっちでも微妙に思えるのが本格的に厳しい。
 まあ別に奈須きのこが書いてるわけじゃないし奈須きのこは優しい人なので帯の推薦文には詐欺師みたいなことばっかり書くし他人のシナリオにダメ出しとかしてないんだろうしそもそも六章七章最終章もダメだったし―――僕がFGOにできることは否定と幻視しかないんだよなあ。あ、今年の水着イベントの導入とかはわりとキャラゲーとしてテクかったんじゃないかと思いますが……。