20190926

米澤嘉博の『売れるマンガ、記憶に残るマンガ』と『手塚治虫マンガ大全』を流し読みした。やはり50年代の手塚治虫ちゃんと読まないとなあという気持ちにはさせられる。私は基本的に60年代以降の作品しか読んでいなくて、でも夏目とかの識者は口を揃えて初期の描線が神なんだと言っている。しかし私は絵を細かく読むタイプではないという問題がある……。

「世界よりも君を選ぶ」ということは正しく思えるのに「世界よりもアメリカを選ぶ」と言われるとちょっと待ちなよとなってしまうことについて考えていたが、大小のスケールの問題ではなく、「世界よりも個人を選ぶ」というのと「世界よりも社会を選ぶ」ということの違いであるとすると、別に矛盾してはいない(個人>世界>社会の序列には抵抗を感じないので)。しかし本当に世界と社会の区別がつけることが実践的に可能なのか(たとえば大塚英志は世界と社会の区別をつけていない節があり、個人が「日本」と同一化して覚醒することをセカイ系と呼んだりしているがこれ自体は誤用に近いと思う)。それがまだわからない。

確か統治と功利だと「幸福度を高める薬」はその安全性が確かなものなら投与OKということになっていた。しかし統治功利主義においては二階の欲望が前提なので、「幸福度を高める薬を投与されている状態」を我々が幸福であると感じるか、というメタ認知が考慮される。そこに感じる倫理的抵抗も効用の低下につながるので人々の意識が変革していかなければゲノム操作もとりあえず許可されないように思う(現時点で圧倒的に多い先行世代の効用が微減するような気もするし)。でも反ワクチンの人が圧倒的マジョリティの時にも多分統治者はワクチンを秘密裏に投与するはずなのでそうでもないかな? 効用増加のために詐術を用いることを統治功利主義は肯定しているので、もしかしたらもうすでにゲノム操作は秘密裏に行われて子どもたちの効用が静かに増加しているかもしれない……(陰謀論)。