20191015

「人生は運にどうしようもなく規定されている」という世界認識は完全に正しいと思う。とはいえ、それを表明することには抵抗がある。なぜかというと、「運ゲーにおいて運がいい者は強く正しい」からだ。例えばおそらく『賭ケグルイ』においては運がいいことは正義だ(一巻しか読んでないが……)。

「人生は運である」と規定した瞬間、「運がいい」ことを自らの価値とすることには論理的に一切の問題がなくなる。他に価値がないのだから、能力自慢も人格自慢も友達自慢も実家自慢も自由にすることができてしまうだろう。「俺はラッキーだったよ」と言っているからといってその人が価値を捨てることはないし、そこに価値があることが否定できるわけもない。むしろ、運という最高審級が既得権益を絶対化するだろう。

もちろん「そもそも自他の価値を比較することをやめるべき」「人生はゲームではない」などの前提があるのだが、現世においてそのような認識を徹底することが可能になるとは思えない。

「不幸なままで幸福な奴に勝ちたい」というレベルでの階級闘争がやはりどこかで必要とされるのだが、それがどのように展開されるのかはわからないし、オチは特にない。