20191009

『ジョーカー』を見た。完全に感情移入してしまった。実際、「親の頭おかしいなー(親は私のことを頭おかしいと思ってるんだろうな)」とか毎日思いながら暮らしているとちょっと半端じゃなくシンクロしてしまうところがあるよ……。

アーサーはコメディアンを見ているときに必ず他の観客とは違うタイミングで笑う。それは「笑いのツボ」が違うだけで、ショー自体を楽しく見ているという点では他の観客と同じなのだろうか? とてもそうは思えない(そうであるなら、そこに断絶はほとんどないと言える)。彼の持病である突発的な笑いの発作が起きた瞬間を「面白かった」と事後的に解釈しているとしか考えられないだろう(もしくは発作すら起きていないのにわざと笑っている)。当然彼自身もコメディアンが全く面白くないことを知っている。なぜアーサーはコメディアンを目指していたのだろうか。私はここになぜ小説を書くのかわからないワナビの姿をみて本当に厳しい気持ちになった。京アニ大賞という最もなぜ小説を書くのかわからないワナビが集まっていたであろう賞のことを思い出したりもした。

映画自体は主題をあまりにもあからさまに語っていて、批評的に優れたものでは全くないと思う。社会や群衆の描き方はあまりにも雑というかアーサーの心象具現化に近いし、上の問題にも結局は「社会から無視されているので誰かに見てほしかった」という答えが用意されてはいる。しかしそれは建前に近い答えであって、その選択された手段に切実さを感じずにはいられない。

 

 

20191008

ゲームしてアイシールド21読んで昔のアニメを見たら一日が終わっていた。あまりにも内容がないのでこの日記は1009に書いていますとか書くのも微妙に馬鹿らしくなってきた……。

ゲーム依存を克服するための方法は基本的にクリアできるゲームをやることしかない。クリアできないゲームはたいていある時点からプレイヤーに蓄積されるものが極小化し、プレイの負担も限りなく小さくなる(だから死ぬほど眠くてもできてしまう)。ということでアトラクナクアを再開する。

そもそも自分が公開日記をつける理由の一つとして日記を書くことができるようになんらかのことをするインセンティブを働かせることがあるのだけど(それがなくなってくると記述が短くなり更新が途絶える)、ちょっと今はかなり危ない状態だ。

 

20191007

寝不足で本当に駄目。気温が低くなってきて生活が退廃してきた。そろそろまじめに文章書いたりしたい。明日から本気出す。

『アースダイバー』を少し読んだけど、東京の街に興味がないので読みにくい。まあ東京に限らず札幌にも京都にも別に興味はない。自分が特定の空間の中で生きているという感覚を自宅以外で持つことがほとんどないのはやはり世界との関係不全なんだと思う。

自分の中で特別な季節感覚もほとんどないが、やはり冬への特殊な愛着は少しある。しかしそれは季節感覚というより、寒さの中で精神が研ぎ澄まされていたある瞬間の記憶の断片が普遍化されて想起されるといったほうが正しい気がする。

20191006

ゼノンザードはやめることができたんだけど、ロストアーカイブというカードゲームをやってしまっている。プレイ中に寝落ちしたのでこの日記は1007に書いています。音楽が下村陽子だというだけの理由で手を付けたのだがけっこう面白い。時間の無駄なのでやらなくていいです。イラストレーターがIzumi/兎塚エイジ/緒方剛志/こげどんぼ*/さくら小春/獅子猿/藤ちょこ/藤真拓哉/ぽよよん・ろっく/美樹本晴彦/みやま零/八重樫南/lackとかで、微妙に15年くらい前の布陣っぽいのがちょっと気に入っている。カードゲームが好きなのは小学生のときにカルドセプトセカンドとカードヒーローを1000時間くらいやって脳に機械化の快楽を刻み込んだからだと思うんだけど、これもしかして一生治らないのかなーとは思ってしまう。実はシャドウバースもリリース直後に150時間くらいやってたし……。しかし虚無的な単純作業(クッキークリッカー)の快楽はゲーム体験のコアにあるものであってそこを否定することはできない。言語化することすら困難な虚無的な単純作業の反社会性は読書の比ではなく、その反社会性によって人格を形成したところはあるのだから(ゲーム脳の恐怖)。「虚無的な単純作業」それ自体に批評性を与えたゲームというのでパッと思いつくのは『いりす症候群!』と『SCE2』なんだけど、他にもいろいろあるんだろうとは思う(クッキークリッカーに批評性がないとは言えないし)。久しぶりに批評性があるゲームがやりたい。

 

 

 

 

20191005

憂国のラスプーチン』を読んでいる。伊藤潤二の無駄遣いではあるんだけど、読んでると佐藤優はすごい経験をしているという端的な事実に気圧されてしまうところはある。

ここ数日はやや辛いことが多いのを大量の漫画を読むことでごまかしているところがある。自分の本当にいいところは、大量の娯楽によって現実逃避することが本当にうまいところだと思う。

チェンソーマンブームがきているようだ。自分としてもジャンプ本誌ではめだかボックス以来に気に入っている漫画なので、ずっと頑張ってほしい。そういえばファイアパンチは話題になった序盤よりも中盤以降の変な雰囲気の漫画になったあとのほうが好きだった。記憶が曖昧だが、ちょっと初期設定に無理があったことで後半もうまく展開できなかったような印象があって、その点チェンソーマンは設定の無理がなくてナチュラルな良さを最初から出せていて偉いと思っている。

20191004

『Dreams』全71巻を読んだ。昔20巻くらいまで読んでいたがその後は読んでいなかった漫画。おそらく一般的な評価としては、最初の5巻くらいまでは面白いけどそのあとどんどんだめになり甲子園に入ってからはずっと引き伸ばしで読むに耐えず最終的に雑誌廃刊で半打ち切りエンド、ということになると思う。しかしけっこうこの漫画が好きだ。ホームランとバッターアウトのみに意味がありヒットはそれらの失敗結果でしかないというところやよくわからない科学的魔球が次々と投入されるところや一球一球大ゴマ連発で展開するので死ぬほど話の進みが遅いところが案外気に入っている(しかしそれは最初の5巻の丁寧さを否定した地点にある良さだが)。かなり台詞が天然でまっすぐに変な台詞を量産しているのでそこは普通に読みどころ。この漫画は本当に野球の試合以外の描写がほとんどなくて恋愛はおろか友情描写も試合以外では描かれない。それは主人公の久里が野球でしかコミュニケーションをとれないからであって、その事実にとことん誠実であったことが美徳だったと思う。

20191001

あまり集中できない日だった。

小説を書こうと思って3ヶ月ほど前に作った小説フォルダを開いたら登場人物「淵かるた(トランプ支持者)」とかジャンル「アンチビルドゥングスロマンホラー」とかでちょっとうーん……となった。しかしとりあえず続行する。

そういえば最近加速主義の話をあまり見なくなってしまったけど、新本格はミステリの形式を加速する加速主義だったと理解している(exitしたのは清涼院とか麻耶とかの一部だけだとしても)。「加速」と「exit」のどちらに力点を置くかによって加速主義者も派閥が分かれる印象があって、例えば西尾維新は加速を重視していただろう(なんてったって加速→空転→大団円のネコソギラジカルだし超越志向はもともとあまりない)し上遠野浩平はexit(突破)を重視していただろう。自分はといえば、多分今は加速派だ。exit=超越への希求はもちろんあるけど、それよりとりあえず速度がほしい(しかし加速度の概念は検証されていない印象があるし、自分でもあまり考えていない)。

 

20190930

プリパラミュージックコレクションが最高。

今週のチェンソーマンもわりとよかった。即物的なものから人間関係を立ち上げる手付きにはけっこう確かなものがある。多分映画見まくって漫画描いてるんだと思うんだけど、どっかでインタビューとかあったかな。

アトラクナクアをやっている。時間の感覚が少し不思議なゲームだと思うが、シーンが切り替わってもBGMがなかなか変わらず同じ曲がループすることも影響しているような気がする。攻略したキャラ=獲物は人間世界から除外されて、人間関係が部分的にリセットされてしかし話は続いていく。獲物を捉えると少しだけ世界が変質して次の獲物へと話は進む。学園が比良坂初音の巣になっていく感覚が、ある程度表現されている。それと比良坂初音はマンティコアっぽさがあるね。

深層ニュースという番組で大村知事と河村市長と宮台真司と木村草太が出ているのをなんとなく見た。宮台がやる気なさそうに「レベルが低い」と繰り返していたのが印象に残った。語彙や振る舞いの種類において圧倒的に分断を感じ、そして自分はその分断の片側にいるという事実そのものに苦しさを感じる。だから東浩紀の正直全部どうでもいいと思っているだろうな、という態度を心から批判することは自分にはできない。

 

 

 

20190929

図書館に行ったあと大塚家具に行った。何時間かかけてセイルチェアとかアーロンチェアとかバロンチェアとか座ってたけど最終的に何もわからなくなって帰宅してしまった。

cis『一人の力で日経平均を動かせる男の投資哲学』を読んだ。なんというか、森博嗣の小説家という職業のような印象の本。森博嗣がマンガ描いてたから小説書ける、みたいなノリでゲーマーだったから株も余裕、みたいな話が続く。完全な異能持ちっぽくてわりと面白かった。

20190928

睡眠時間を減らそうと思い、5時間睡眠で活動をしたら一日中ややぼんやりとしていた。夜も寝落ちしたのでこの日記は0929に書いています。睡眠は一日7時間必要だな……。

『韓国現代史』を読み終えて米沢嘉博『戦後少女マンガ史』を少し眺めて(さすがに1980年までの少女漫画をほとんど読んでないので記述が全体的に理解不能でした)村山渉『フキゲンシンデレラ』を読んだことくらい。フキゲンシンデレラはTSした主人公が最後男と女に分裂して終わるのが面白かった。

それとまどマギの最終話を見た。Aパートで因果がどうとか言ってるところは無理やりロジック感が出すぎていて微妙だけどBパートは今見ると雰囲気がとてもいいと思う。「私の戦場はここじゃない」からの戦場を見つけるエンドだったんだなーとか。しかしみているとトップ2の素晴らしさなどを考えてしまった。概念になった主人公にヒロインが置いていかれる、という話として考えると似た印象は受けるのだが(まあそんなこと言ったらウテナもそうだしそもそも榎戸要素なのかもしれない)、話全体の構築がまどマギとトップ2ではレベルが違うとは思うしノノとラルクのほうがまどほむよりはずっと自由だ。10年後くらいにまどマギ2を榎戸脚本でやるといいかもしれない。

 

 

20190927

サブカルチャー文学論』を少し拾い読みした。

最近はもはや大塚英志の信者のように振る舞っているところがあるが、ある時期に大塚英志の理論を脳内で完コピできるようにしようと思ってそれを実行しているのでそういうふうになってしまう。実際民俗学関連を除けば大雑把なレベルでシミュレートできるようになってきた感覚はある。大塚英志のデッドコピーになるのはさすがにヤバイとは思うので適宜修正は加えているつもりだけど、私にとって大塚英志はなにより多重人格探偵サイコ大塚英志であって普通の批評家に比べて初期値での尊敬度が圧倒的に高いのであまり取り入れることに抵抗がないんだよね……。まあ普通に信用できる部類だとも思うし……。

前に某氏と話したときに「90年代はゼロ年代を生んだから肯定できるけどゼロ年代は10年代を生んだから肯定できないよね」と言われ、その場では「そうですねー」などと言いつつ内心では「確かにそんな気もするが論理的にはどうなんだ?」と思っていた記憶があるのだが、最近は完全にこの言葉に同意できる気分になっている。しかしゼロ年代を肯定したいので今から10年代も全部よくなってほしい。

 

20190926

米澤嘉博の『売れるマンガ、記憶に残るマンガ』と『手塚治虫マンガ大全』を流し読みした。やはり50年代の手塚治虫ちゃんと読まないとなあという気持ちにはさせられる。私は基本的に60年代以降の作品しか読んでいなくて、でも夏目とかの識者は口を揃えて初期の描線が神なんだと言っている。しかし私は絵を細かく読むタイプではないという問題がある……。

「世界よりも君を選ぶ」ということは正しく思えるのに「世界よりもアメリカを選ぶ」と言われるとちょっと待ちなよとなってしまうことについて考えていたが、大小のスケールの問題ではなく、「世界よりも個人を選ぶ」というのと「世界よりも社会を選ぶ」ということの違いであるとすると、別に矛盾してはいない(個人>世界>社会の序列には抵抗を感じないので)。しかし本当に世界と社会の区別がつけることが実践的に可能なのか(たとえば大塚英志は世界と社会の区別をつけていない節があり、個人が「日本」と同一化して覚醒することをセカイ系と呼んだりしているがこれ自体は誤用に近いと思う)。それがまだわからない。

確か統治と功利だと「幸福度を高める薬」はその安全性が確かなものなら投与OKということになっていた。しかし統治功利主義においては二階の欲望が前提なので、「幸福度を高める薬を投与されている状態」を我々が幸福であると感じるか、というメタ認知が考慮される。そこに感じる倫理的抵抗も効用の低下につながるので人々の意識が変革していかなければゲノム操作もとりあえず許可されないように思う(現時点で圧倒的に多い先行世代の効用が微減するような気もするし)。でも反ワクチンの人が圧倒的マジョリティの時にも多分統治者はワクチンを秘密裏に投与するはずなのでそうでもないかな? 効用増加のために詐術を用いることを統治功利主義は肯定しているので、もしかしたらもうすでにゲノム操作は秘密裏に行われて子どもたちの効用が静かに増加しているかもしれない……(陰謀論)。

 

20190925

一切やる気がおきず夜までなにもできなかった。

0919の記述について少しやり取り。生活厨批判は個人的に他人の生活に興味を持てないし持ちたくないという点に端を発していることは一応書いておく。西尾維新も作者は作品を生み出す装置としか思えないと昔書いていた。
さらに書くなら、生活厨が倫理的に悪いといいたいわけでもなく単純に生活厨的な態度・価値観を全面に出されるとその人との対話は不可能だと判断してしまうな、というかなり即物的な問題でもある。

「生きてるだけで偉い」は生活賛美ではないような気がしてきた。ちょっと元ネタがどこかもわからないし言説精査もしてないんだけど、「つらい人生の中で日々の仕事や生活をこなしているあなた(わたし)はとても立派なことをしている」というメッセージなのだと解釈している。普通に自己啓発なので言説として取り合うものではない気もするが、内容的には別に生活賛美ではないな……。「命をだいじに」という方が明らかに近く、それについては特に異論はないので適切な例ではなかった。あえて言うならその路線だと個人の生存が自己目的化していってジリ貧じゃないか、というくらいの一般論か。この言葉の本当の問題は「自分は別に偉くない」という圧倒的な実感に対してこの自己啓発が一切救済に寄与せず疎外されているという被害妄想を味わうことであって、内容の問題ではない。というわけで訂正です。雑!

紫晶石で検索してもソシャゲ攻略情報ばかり出てくる問題というのはある。PN→菱紫→アメジスト(誕生石)からの紫晶石なんだけどなんで最終的にこのネーミングなのかは忘れた。