20191023

昔、『金田一少年の推理ミス』という本があった。いわゆる謎本で、金田一少年の推理のおかしいところを指摘していく死ぬほどくだらない本だが、小学生の私はこの本をわりと好きだった。今でもさほど悪い印象は持っていない。一方、私は『犯人たちの事件簿』という作品やそれを読んで喜ぶ行為を大げさに言えば軽蔑している。ここになんの違いがあるのだろうか。

『推理ミス』については、そこでどんなイチャモンがつけられていようが作中で発生した事実を認めている、内面には踏み込まない、ということがやはり重要であるように思える。『推理ミス』は作品の論理的な瑕疵を推理に帰責する。そして推理ミスを検証したのちに代替の推理案・トリック案を考えて、それが不可能なときには論理を超えた超常現象が起きていたのだろう、と結論していたと記憶する。これは最終的には茶化しているのだが、ミステリを読む態度として間違ってはいないだろう。ミステリが読者と作者の勝負だとするなら(私はその考え方を採用していないが)、読者が勝利したあとはもう解釈を手放すほかない。

『犯人たち』は、作品の論理的な瑕疵を犯人に帰責する。そして犯人をキャラ崩壊させ、ギャグ漫画時空にすることで整合性を保つというやり方で原作をハックしようとする。このやり方には、心底嫌らしさを感じる。

金田一少年において犯人は異名を背負い「怪人」へと生成変化している。犯人の内面描写の肝はすべて人間→怪人(→人間)のドラマにあるといっていい。コレ自体は安いメロドラマなのだが、そこに一定の達成はあった。「怪人」を頑なに否認するこのスピンオフはいったいなにを意図しているのだろうか。

とはいっても両者に似た傾向があることまでは否定できず、私が昔『推理ミス』とか読んで喜んでたからこんな作品が生まれてしまったんだろうなあ、と嫌な気分にもなる。結局、私がけっこう金田一少年を好きだというだけなのかもしれない……。

ちなみに全盛期の福本伸行パワーワードでリズムを作るとかいうレベルをはるかに超えてあらゆるテキストが独自の「世界認識」であってそれが全体として福本作品の世界観を作り上げていたので『犯人たち』や『ハンチョウ』のような作品とは比較するべきではないと思います。