ガールズアンドパンツァー劇場版
見てきた。面白かった。ネタバレ。
TVシリーズを「存在しないものを信じて戦っていた」としたり旧日本軍パロ高校が出てきたり学園から追い出されたりと序盤は世界観が厳しくて不安になるのだけど、臨時学校パートが社会性皆無の異常な空間でどうでもよくなる(教師はどこにいったんだ……という無粋すぎるつっこみが頭に浮かばざるをえないというか、なんだったんだあれ)。幽世感。それこそ人類史の終わった後の世界でにょきにょきと少女たちが生まれてレイヤーを構成しているかのような感覚。ガルパンって放送当時戦車版咲と言われていた覚えがあるのだけど、劇場版の西住みほは咲さん感かなりあると思う。今思うとTVシリーズのあの優しさはどちらかというとスロウスタートでは?(あまり覚えていない)
映画としては戦車戦が中心(時間的にもこっちのほうが長いはず)。普通に面白かった。
戦車道には人生のすべてがあるというようなセリフが何度か出てくるけれど、確かにあの世界は戦車道と少女たちのためにあるんだと納得させられる感じがあった。
新キャラのミカとアリスは良かった。世界の広がりを感じさせる新キャラだった(ここでいう世界の広がりというのは少年漫画脳的な意味です)。
悪魔のリドル(アニメ)
昨日全話見た。面白かった。
細かい話運びとかはまあ適当なんだけど公案みたいなリドルを毎回与えられつつテンション高いキャラが投入されては退場していくだけでいいリズムは自然にできていく。
キャラに変な騙しを入れないところが好きだった。少人数学級で過激なキャラがひとりずつ退場していくというとやはりダンガンロンパを思い出すんだけど真相を暴き出す学級裁判というのはやはり少し際どいところに踏み込むシステムだったのに対してリドルではキャラがとことん表面的に素早く処理される(描写が少ないというわけでもなく方向性として)。
退場できない主人公の物語を展開するときも内面に踏み込むのではなく呪いの祝ぎ再解釈という思考転回が進行していく(死者に対してある種の肯定的解釈を行っても良いのだということ、そして生きている他者を信頼してもいいのだということ)。黒組の人はほとんど全員が誰かを信頼している様子が描かれていたということは一応気にした方がいいだろう。武智乙哉と英純恋子はナルシストらしいのと、剣持しえなはあまりにも出番が少なかったことで信頼の描写がないが、大筋としてはクラスメイトとふれあい東兎角の人間不信が治る話ということなのだと思う。
キャラはみんな良かったですがスペック厨なので犬飼伊介が好きです。
謎理論
エモさを生み出す要素の一つとしての謎理論というものを考えている。
フィクション内において独自理論が正しく運用されているときの感覚。現実的かどうかなどは関係なく圧倒的なリアリティが生まれるあの瞬間。
清涼院―舞城を謎理論の代表的使い手として想定しつつもエヴァとかジョジョにもつながる概念だと思っている。ゆで理論みたいなのは少し扱いに困るというか、あれはキャラ依存の物理法則の歪みであって世界の問題ではないと考えているためここでは除外。
個人が世界を記述する方法の極限がポエムだとしたならば、世界が個人を介さず剥き出しになって現れる方法の極限が謎理論であるといえるかもしれない。
プッチ神父がフレームに突っ込んで浮遊したときのあの感覚や九十九十九が謎を解決するときのあの感覚をいつまでも忘れずにいたい。謎理論を理解し使用する時、キャラクターは世界を支配する。
科学的データに裏打ちされた幸福増進プログラム
まあ、そういうのもありだよなと思った。現実……というか自分に限れば主観的幸福肯定派だしたまにする妄想の一つがSF的バーチャルリアリティ装置実験の被験者になるもあえなく実験失敗し意識だけがバーチャルに取り残されて幸せになるというやつだ。
アニメ(ーター)見本市のドキュメンタリーが見たい。
ながいけん『第三世界の長井』01・02巻
再読。初読時と変わらず、長井が哀れすぎて読んでいられない。アンカーでベタベタと設定を貼り付けられる長井には同一性もなにもないし自由意志もない。今のところ外見は一応初期設定で維持されてるようだけど落書きみたいなその姿は今後どんどん怪物みたいになっていくかもしれない。感情はある。アンカーは感情への干渉も可能であるけれど、それは予測しうる感情のコントロール(父の設定とか)とすでに発露された感情への事後解釈であり、読んでいるその瞬間に不自然な発話とぎこちない動作の奥に見出されるナマの感情はある。しかしそういうところをテコに最終的に長井がキャラクターとして解放されるのだとしてもこの存在を見守るのはつらすぎる。
大したことじゃないけれど、ベタ読みしにくいメタが苦手だというのもある。元長柾木も言ってたけどハルヒとか普通に考えてベタ読みする小説だと思うし『かってに改蔵』だって作中にまるごと現実世界と同じ作品があって芸能人がいるんだと思えば多くの回はベタ読みできる。だけれど、アンカーを作る「編集者」とか「モリタイシ」とかをベタ読みするのは感覚的に難しいし顔写真演出なんかもかなり厳しい。そういう、現実の悪意でキャラクターがひどい目にあうみたいなのは苦手だ。
よくない考え
やはり「なにもしたくない」と「なにもしていない」の二択では前者のほうがいいと思う。なにもしていないと考え始めると本当にメンヘる。それよりは堕落していてもまだなにもしたくないという根源的欲望があってそれが抑圧されてると考えたほうが生存のためにはいい。実際なにもしていない状態であるのにも関わらずなにもしたくないという主張をするのはどうなのかとつっこまれそうだけれどなにかをしなければならないという圧力が内外ともに発生しておりその狭間で虚無ってる自分がなにもしたくないという根源的エネルギーによってギリギリ圧力に耐えているのだから現実的になにもしていないことは問題ではない。
過去や未来のことなど考えられない。本当になにもしたくない。
エロゲ感
エロゲ感という言葉をとても適当に使っている。すぐに思いつく要素としては
・分岐と可能世界の存在
・人生感
・ヒロイン指向
・立ち絵と背景絵とテキストウィンドウによって規定される視野
とかがあって、他にも色々あるだろう(礼拝堂のような総合体験とか終わった後のお話とか言ってる人もいた)。
僕がエロゲ感という言葉を用いるときに意識することが多いのは分岐・可能世界に関係する要素の配置ということになるのだと思う。多分世界線が変わった感覚と言うのがわかりやすい、「世界内の要素が再配置されているということがルート間の差異によって感じられる瞬間」。
多分エロゲーの選択肢について、固定的な世界の中で主人公による僅かな選択の違いがバタフライ効果的に運命を変えていくという認識をしている人もいるのだと思う。それはそれでアリだと思うけれど最初にプレイしたノベルゲームが『かまいたちの夜2』で二番目にプレイしたPCゲームが『G線上の魔王』なのでルート間の整合性とかにあまり興味が無い。少しずつずれる世界ではなく配置が全く異なる世界を想定している。
世界内の要素が再配置されてる感覚が好きだというのは、グランドルートのあるゲームでの全てが最適配置されてる感覚が好きだということにも通じる。岩井俊二監督の『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』という映画を見ると「エロゲだ……」と思うのだけど、それはただ単に二つの可能世界が提示されるからではなくて、一度目はバラバラに見ることしかできない花火という中心を二度目は下・横から見ることができるという要素の適切な再配置がわかりやすく行われていることでグランドルート感が顕になるからだと思う(エロゲだと長いし既読スキップとかで差異がわかりやすいので映像より再編成が意識しやすい。誰にとって適切な配置かは微妙。物語にとって……ということになるのだろうか)。
だいたい話は終わっているけどもう少し例示。
ジョジョ第四部ラストの川尻早人や猫草のあたり(命を運ぶと書いて運命)はエロゲ感があまりない。あれは「論理的につながる最適な配置をしたら上手なストーリーテリングになった」というような場合に思える。打ち上げ花火にあるのは事後的に見出される最適配置だからそこに論理性はない。むしろ第六部ラストの再編成された世界に投げ込まれる感覚がエロゲ感ある。
舞城王太郎『九十九十九』のRPGツクール感(時系列ではなくイベントフラグで物語が管理されているかのような小説、という話が昔あった)というのは個人的にはエロゲ感とかなり近くて、世界の最適配置でフラグが立って世界が正しく回り始める、というような感覚。証拠さえ集まれば自動的に真相が分かる探偵である九十九十九の「謎などありませんよ。あるのは論理的な解決のみです」という言葉は実のところ世界を動かすのは論理でもなんでもなくただ最適な配置(証拠・初期条件)があればそれだけで展開するのだという宣言であり、それを『九十九十九』は汲みとっていたような気がする。
※僕は普通に「人生感」「最高」くらいの意味でもエロゲ感という言葉を使っているので全く厳密ではありません