20190924
体調は回復している。図書館。
木村幹『韓国現代史』がけっこう面白い。歴代大統領が歴史の節目で何をしていたかをドキュメント的に書くんだけど分かりやすいし群像劇としてもわりとアツい。
プリコネ王雀孫、ちょっと動画みたけどやっぱ駄目っぽくない? コミュニケーション不全とは世界との関係不全でもあるというかつてあったはずの視点が一切存在しないように見える。世界の中に居場所があるやつがぼっちとかやってても全く切実に見えない(そこから「居場所」をいかにして作るか、という方向に派生していったというのが部活ものの起源の一つとしてあるんだと思うけど、その方向性はやはりあまり面白くないのではないかと思う)。
20190923
また体調が悪くなったのであまりディスプレイを見ないでずっと寝ていた。0924に書いています。
『宝石の国』を9巻まで読んだ。前は4巻くらいまでしか読んでいなかったのだが、これはかなり手塚治虫的なマンガなんじゃないかと思う。手塚作品では繰り返し身体のメタモルフォーゼと精神の変質が描かれているのだけど、完全にそのような問題系が全面に出ていた。キャラクターのアタマをギャグではなくすげ替える描写自体、鉄腕アトムと火の鳥以外で覚えてないし。市川春子は手塚治虫文化賞とってるということを思い出し、もしかして賞がけっこうちゃんと機能してるのか??と思ってしまった。で、金剛先生の正体とかも手塚ファンならですよねーという感じだと思う(本人がファンかどうかは知らないが……)。手塚先生は人類愛を強く持っててもあまり個別の愛とか勇気とかは信じてない印象なんですけど宝石の国はカプ厨にも優し(?)そうでいいのではないでしょうか。好きなキャラはとても多いが、特にフォスとルチルかな……。
20190919
図書館。
今週のチャンピオンの板垣恵介×板垣巴留対談はファンなら必読。
『愚民社会』を読み終える。しかしいくら大塚とか読んでても、根本的に社会とかどうでもいいなという思いが一切消えない。なのだが、社会を否定したときに生活厨へと転落するパターンがあるように思えて、完全に社会をシャットアウトするのも危険なのではないかと思っている。あえて強い言い方をすると、ネトウヨのことはそれ自体としては前に書いた通り究極的にはどうでもいいと思っているが、生活厨に対してはある種の憎しみを感じていることを否定することはできない。生活厨とはなにか? 最大限に広くとったときに、それは個人が偶然的に特権的に持つものに最大の価値を置く態度のこと、くらいにまで拡大されるだろう。典型的には「身体」に最大の価値をおいてそのメンテナンスに努めるタイプの生活厨が想定されるが、私の中での生活厨の認定範囲は相当に広い。大量生産品が好きで限定品が苦手なこともアンチ生活厨の一環だ(もちろん限定品があればほしいが、その存在自体は悪だと思っている)。だから、大塚が「ぼくは戦後民主主義の中で大衆に開かれた言葉を使うことで書き手になれた」みたいなことを言っているとどうしても共感してしまうところはある。
思い出。私は一定の時期まで世間で流行の漫画をリアルタイムに読んで素直に楽しめる人間だったのだけど、2010年頃に進撃の巨人とキングダムが周囲で流行り始めて、その2つを後追いで読んで一切楽しめなかったあたりからなにかがズレはじめたような気がする。というわけで進撃の巨人への印象はすこぶる悪いがそろそろ和解するか……と思っていたが結局読めなかった。なんか変な薬でもやってるみたいな変なテンションのヒロイズムで全てのキャラを立ててる印象が厳しいんだよね……。まあ動員っぽいというだけかもしれない。
20190918
図書館。
『愚民社会』をちょっと読み直す。大塚と宮台がだべってるだけなんだけど、ヤサグレ気味の大塚が見れるのでファンにはおすすめ。とはいえ宮台が「人間関係がほしければ絆コストを払え」とか言ってるのみると資本主義やめろ友情は見返りを求めないって知らないのかよ……とは思う。しかし最近は私も土人がいるなあくらいのことはよく思うので邪悪な存在になってしまったかもしれない。
『おたく☆まっしぐら』を再プレイしている。最高。ロミオにはヒロインを救うことはもう当然のようにできてしまうマッチョ性があるんだけど、大事なのはいつも救ったあとのことだ。生活は常に戦争の裏で進行している(その関係をぬるく描くとスクールカーストになるのだろう)。そういうロミオ的なあれこれがごろっと原形で提示されるゲームだと思う。あと単純にコメディのテキストがちょっと異次元に面白い……。よっしールートとか本当にすごいよ。
20190917
昨晩は日記を書き忘れていたので0918に書いている。
加藤幹郎『夢の分け前』を読んだ。理論よりの映画エッセイ。ガチのシネフィルだが蓮實重彦よりはスノッブ感がなくて好きになれる。京都は映画の街であり、京都を舞台にした物語はしばしば女性が物語の中心に位置し、京都をめぐる物語はつねに女性によって語られてきたのだ、という記述を読んでややウッとなったりなど。20世紀は精神分析・映画・ファシズムの時代というのが常識らしい(四方田犬彦あたりが元ネタなのか?)。神のいない時代に大衆の欲望を投影するもの?
実は一ヶ月くらい前に電動昇降机買ってて神なんですけど(座ってるのがだるくなったときに立ち作業にできるのだ)こうなるとやっぱり椅子のほうもいい椅子が欲しくなるんだよな……。しかし問題があって、現在自室の床が明らかにちょっと傾いているので椅子がよくても座り心地がよくなるのかどうか不安だ。
20190916
図書館に行った。携帯を持ち歩かないほうがいいということを実感している。
『雲のむこう、約束の場所』の小説版(加納新太)を読む。上京パートが完全に秒速5センチメートルで驚いた。歴史修正は絶対にだめだという倫理も発動していて君の名はのことなどを思いなんともいえない気分になる。よかった。「届かないものへの憧れ」と「ヒロインへの思慕」は等価なものであって、しかしそれが一度交換されてしまえばもう不可逆であるというような人生の厳しさがある。
『FACTFULNESS』をぱらぱらとめくって気分が悪くなった。「貧困層は世界人口の7パーセントしかいません思ったより少ないですね」みたいなことを延々書き続けることで人々の認知にはバイアスがかかってるんですよということを書いているんだけど、人間を統計にしていく所作を見ていると大量死理論をとなえたくもなる。そして最終的に「世界はどんどんよくなっている」と結論づける。ここでも統計上の「不幸な人の割合」は減っている、というようなことが主な論拠だ。理論的なレベルでのツッコミとして割合では減っても人口自体が増えてるんだから200年前に比べて不幸な人は増えてるだろ……とかがあるんだけど実際に不幸か幸せかの判断はどうでもいいとして(狩猟採集民のほうが現代人より幸せだった、というようなサピエンス全史的な知見もそれはそれでクソだと思っている)、心情的な問題として「世界はどんどん悪くなっている」という認識は単なる現状認識を超えて「これから世界はどんどん悪くなるだろう」という未来への予感が現在の確信に転写されるものでもあるはずで、これについて「それは誤認識だ」と指摘することがこの著者にはできるんだろうけどじゃあこれから世界がどんどん悪くなるだろうという予感に対してその指摘はなにか意味があるのかというとないと思う。これは反知性と思われてもしかたがないのだが、統計を心から信じている(かのように振る舞っている)人のことをあまり信じていない。
宝石の国を読み直している。一巻が一番読みにくいんだけど、やっぱりファン的には一巻が一番よかったりするのだろうか。私は普通のストーリー漫画が好きなのでどんどん読みやすくなってありがたいと思っている。キャラがみんな好きなのでやはりいい漫画だと思う。
20190914
図書館に行ったが特に何もしていない。『雲のむこう、約束の場所』のノベライズを半分くらい読んだ。
今週のチェンソーマンとカイジを読む。チェンソーマンは面白いな……。意味不明なハンターハンターパロといえばブラックキャットですが、ブラックキャットが演出とセリフをそのままパクってシーンの意味を与えたのに対してチェンソーマンでは一つのセリフを入れるだけで公安退魔課は幻影旅団的なものが核にあるんだなということを示唆する。偏差値が高い。
それとジャンプで「Jラブコメ祭り」とかいう変な企画をやっていた。ジャンププラスにありそうなショート読み切りがいくつかという感じ。全体的に微妙で西尾維新原作のやつも全然面白くなかった。そもそも短編で一般人主人公に変人ヒロイン出して○○さんは××とかいうのはもはや厳しいのだが、でもみんな絵がうまくてまとまった話にはなっていてすごいな、とは思った。フォーマットの力もあるのかもしれない。
一ヶ月ほどかけて『探偵学園Q』を読み終えた。小学生の頃にある程度読んでいて、しかし中学以降は一度も読み返さなかった漫画。というのも、中学になって清涼院流水を読んだ私には、探偵学園Qという作品がJDCの成果をキバヤシと仲間たちが奪った作品のように感じられたからです。今読み返しても特に感想はなかった。別にそんなに悪い漫画だとは思わないが、あえて読む価値はない。金田一少年を読んだほうが良い(別に金田一も読まなくていいけど)。もっとも注目すべきは恐ろしいほどに絵のコピペを駆使している点。締め切りに間に合わないからとかではなく、完全に技術というか手抜きとしてコピペがあらゆる回に登場する。事件のゲスト初登場のキャラが次のページでなんの改変もせずに同じ顔で違うセリフを喋っているということが常に発生しており、メインキャラクターも見せ場を除けば相当の部分が使い回されている。普通に考えれば他の漫画家もそうすればいいと思うのだが、このレベルでやるとさすがに作品の空気がぎこちなくなるなと思う。
ゼノンザード、変な中毒性があってけっこうやってしまっている。本当に悪癖だ……。配信されていたアニメ版の0話を見た。感想はない。
20190912
9時間くらい寝たら体調は治った。
図書館に行った。
『成熟と喪失』をざっと読み返す。全体の構成がまとまっておらず淡々と成熟や母について内省気味に書き続ける記述は本当に頭に入りにくい。正直大塚解釈経由でしか理解していません。
ユリイカのタランティーノ特集号を流し読みする。やっぱ今の批評とか読めなくなっているなあ。だいたいどうでもいいことを書いているようにしか思えなかった。ゼロ年代サバイバーしか信用できない……。
ゼノンザードはさらに7時間くらいやったが、さすがに時間のムダだということに気がついたのでとりあえずもうやらないことにした。シナリオは一つだけ解放したが、短すぎてちょっと判断できなかった。新しいカードゲームのルールやテキストを覚えながら思考停止してゲームをするのは定期的にやってしまう。上遠野浩平スレあたりで重要な報告があったらまたやるかもしれない。全く関係ないがゼノンザードについて調べていたらかなり熱心な上遠野浩平信者でありかつネトウヨのオタクを見つけてしまいとても嫌な気持ちになった。ネトウヨが嫌いというより、ネトウヨを見ると世界への信頼がかなり下がるのでネトウヨが存在すること自体がつらい。先月あたりからは常に気分が悪い。
柴門ふみ『新・同棲時代』を読む。トレンディドラマとか言っても黄昏流星群との違いは年齢だけだよな……とか思いつつ軽く検索をかけたら柴門ふみと弘兼憲史が夫婦であることを知ってしまい笑う。世界があまりにも単純すぎる……。いや、上の世代にとっては常識なのだろうし完全に勉強不足だった。黄昏流星群といえば新海誠は好きなマンガを聞かれて黄昏流星群と何度か答えているのだった。トレンディドラマをちゃんと見たことはないのだけど、僕の理解では物語のように青春的な恋愛をあえていい大人が現代の地に足についた舞台でやる、みたいなジャンルを想定している。もしかしたらメタラブコメみたいな受容をされていた可能性があるのだろうか。
20190911
昨日の夜寝る前に『春の呪い』全2巻を読んだ。内容的には大変よかった……と言うほど良くはないのだけど、顔マンガというか表情マンガとしてのクオリティがとても高く、読んでいて飽きない満足感がある。主人公がとてもかわいい。
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』を見た。とても反応に困る映画。端的に歴史修正なのだが、懐古厨に振り切っているのと歴史修正の違和感を自覚的に描いているので修正をやめろとも思いにくい……と思ったが、LSDでトリップすることによって歴史修正が可能となるというのはむしろヒッピーの論理であって、やはり破綻してるんじゃないか? ダメかもしれない。69年のハリウッドはキラキラしていて、キャスティングに全力出したな……という感じはかなりあった。
帰りに天気の子のビジュアルガイドを立ち読みする。企画書に「最近トランプとかが地球が温暖化になってもいいんだ!と言っています」みたいなことが書いてあってそこから「天気なんて狂ったままでいい!」というのを着想したということが分かり衝撃を受ける。正気か? ちょっと新海誠には勝てないな、と素で思った。
帰宅したあとやや体調を崩す。なんか映画のスクリーンがやけに眩しく見える、と感じたのがフラグだったのかもしれない。早寝する。
20190910
図書館に行った。
『人身御供論』を読み終えた。非成熟のパラドクスはあらかじめ用意されてたんだなと思った。社会の側から見て個人が成熟するとは社会に全面的に依存することであり、個人にとって個人が成熟するとは社会から独立することである。「通過儀礼」の儀式も二重性を最初からもっており、一方では通過儀礼に失敗したやつが社会に捧げられる供犠となり一方では通過儀礼に成功したやつが社会の一員となる。成熟するとは依存することでありかつ、脱依存することである。社会に全面的に依存するとは「社会になる」ことでもある。非成熟のパラドクスは成熟概念の根本だ。
『ゼノンザード』を六時間くらいプレイした。なんかゲーム内でまったくシナリオが解放されないんだけどどういうことなんだ……。TCG部分については……流行らなさそうですね、という感じ。なんというか、かなり厳しいのではないか。シナリオはアニメとかでやるんだとしたらゲームをやらなくていいのでありがたくはある? ラヴィル・デヴィラとレヴィル・デヴィラはわりと上遠野浩平っぽい名前。もうこうなると上遠野先生ができるだけ労力を割いていないことを祈るフェイズに突入しそうな勢いだが……。